2013年11月9日土曜日

第58回 「三原の祖父母の思い出」

母方の祖父母の家が三原市にあったので、笠岡市に住んでいた子供の頃には、春休み、5月のGW、夏休み、冬休みと学校のお休みの時にはよく泊まりに行っていました。三原駅の南口から、新幹線の高架沿いに西に500m位歩いて少し南に向かうと、家々が立ち並ぶ港町一丁目というところに、間口は狭く、土間が裏口まで通じている東西に長い2階建ての木造の家がありました。土間は家の真ん中で広くなって上り口があり、その上が吹き抜けになっていて天窓から陽が差し込んでいました。玄関わきの縁側からは花火ができ、2階の縁側からは道路向いの駐車場の向こうの西日に映える家々の瓦屋根が見えました。

母は長女で次女、長男、次男、三男の5人兄弟のため、お盆や正月には親戚合わせて20人を超えて狭くなる三原の家は、食事やお風呂もごったがえしていましたが、その混雑もお祭りのようで楽しく感じていました。

祖父は三原の地元企業の帝人に勤めていましたがすでに退職していました。祖母は世羅郡の甲山の出身で「いいえのぅ。」が口癖でした。「いいえのぅ。」とは「ダメ。」という意味です。買い物に行く祖母について地元の三原スーパーに行き、後ろの方から買い物かごにガムとかチョコレートとかこっそり入れると、「いいえのぅ。」としかられて、でもなにかひとつは買ってくれました。少し大きくなってからは、「いいえのぅは、いいえとNOの二重否定だから、結局OKなんじゃ。」と、口ごたえもしましたが。

大半の孫たちが大阪で生活しているので、お盆やお正月には大人数になっても、春休みや5月のGWには、やってくる孫は僕だけのこともあって、あの頃はやや背中の丸くなっていた祖母もまだ元気だったので、小学生の僕を連れて小旅行に連れて行ってくれたことがありました。

三原駅から南へ数分歩くと国道2号線をこえてすぐ海で、三原港があります。その港から船に乗って30-40分揺れると生口島という島の瀬戸田港に着きます。今ではしまなみ海道ができて、平山郁夫美術館や瀬戸田レモンで有名なその町には耕三寺というお寺があります。11月にはきれいな紅葉で知られる境内には、赤いツツジが咲いていたので5月のGWの頃かもしれません。

耕三寺は朱色や金色の極彩色の鮮やかな本堂にも驚きましたが、その隣に入口のある千仏洞地獄峡という地下約15mに掘られた全長350mにもなる地下道(隧道)が輪をかけてびっくりでした。中は薄暗く、たくさんの石造りの仏があり、滝が流れ、数十の地獄極楽図の額が掲げられていました。笠岡の寺の境内で育ったので、仏や地獄極楽の絵図は見慣れてはいましたが、地下道の薄暗いなかでは、子ども心にはだいぶおっかなく、祖母の後ろをついて歩きながら、はやくこの地下道から抜け出たい気分でした。

びくびくしながら歩いた地下道を抜けてほっとした、帰り道の参道で、太助饅頭(たすけまんじゅう)という名物のお饅頭がほかほかと蒸されて売られていました。小さな卵くらいの大きさで、酒粕を練りこんだ白い薄皮で小豆あんを包んである素朴な饅頭は、少し甘酒のようないい香りがして、地下道で疲れたところに恵みのお菓子でした。小さいのでぱくぱく何個も食べてしまって、一気に何個食べたのか忘れてしまいましたが、とても美味でした。太助饅頭が売られていた三浦太助饅頭本舗は閉店されてしまって残念ですが、祖母の「いいえのぅ。」と瀬戸田の太助饅頭は、今も懐かしく思い出されます。


祖父は酒飲みで、煙草吸いで、誰も起きていない朝暗いうちから起きて、玄関を開けて新聞をとり、カチコチと動くゼンマイ式の柱時計がある居間にどっかり座って、タバコに火をつけて煙をくゆらせながら老眼鏡をかけて新聞を読んでいました。

夏休みには、孫たちのなかでは一番朝に強かった僕をつれて、たぶん朝5時くらいに散歩に行くことがありました。行先は家から北にある山の中腹にある三原観光ホテルでした。新幹線の高架をくぐって、今は三原バイパスができていて、その恵下谷ランプがある甲山通りのある谷の道を歩いていき、だんだん上り坂になっていきます。なにかすこしは話をしながら歩いたのでしょうが、明治生まれで口数が少なく、歩くのが速い祖父だったので、ついて歩くのがやっとで何を話したのかは覚えていません。

山の中腹にある三原観光ホテルに着くころには明るくなっていて、そのホテルの隣にある公園で休憩しました。中央公園というその公園からは三原市街地が一望できて、その南に沼田川、帝人の工場、瀬戸内海、そして、山頂から望む瀬戸内海国立公園の多島美は瀬戸内海随一といわれ、風光明媚で知られる筆影山がよく見えました。

毎年8月の第2日曜日を含む金土日にある、とても賑やかな三原やっさ祭りの最終日には花火大会があるのですが、1回だけこの公園から沼田川河口で上げられる花火を見たことがあって、花火が川面に映ってとてもきれいでした。

今でも三原駅から北西の山の中腹に白い建物は見えますが、実際にはホテルも公園も荒廃して見る影もありません。しかし、祖父と眺めた景色は、今も懐かしく思い出されます。



後年、祖父は家の近くの国道2号線で早朝に交通事故にあい、周りの認識もできなくなってしまい、気管切開を受け経管栄養でだいぶがんばりましたが亡くなりました。祖母は何年かはひとり暮らしをしていましたが、叔父のいる大阪に転居し、東西に長い思い出の三原の家は無くなってしまいました。





三原の名物といえば八天堂のくりーむパンが有名ですが、寒くなると同じ港町一丁目にある昭和21年日本初の製法特許を取得した共楽堂の「即席あめゆ」が秀逸です。小箱に入ったその粉には生姜が入っていて、お湯にとかすと穏やかな山吹色になり、生姜のよい香りと麦芽飴のやさしい甘さがじんわりと温めてくれます。優しかった祖父母の思い出のように。


内科医長 松本