2013年2月20日水曜日

第32回 「私の看護発祥地」

私が看護を学んだのは、瀬戸内海に面した町“呉”です。

呉は造船業で栄え、あの悲運の戦艦「大和」を造った町です。明治37年呉海軍工廠職工共済会病院の創立と同時に看護師の養成を始めた私の母校は、なんと今年で108年を迎える歴史ある学校です。 

“呉共済病院看護専門学校”での学びが、
私の看護の原点です。 







私が入学した当時は、3階建ての古い寮の上に増築された建物が校舎でした。
1年生はしばらく学科だけで、8時間の授業は体育会系の私にとっては地獄でした。1日の授業が終わると教室・トイレ・実習室の掃除があります。
担任の先生が窓の桟を指でこすり、

「まだ汚れとるよ!きれいにしんさいや!」

「そこに髪の毛が落ちとるじゃないね!」

と一喝。
そんな教務の先生は厳しかったけど愛情がありましたね。

1年生の1学期が終了する頃、初の病棟実習です。
この頃は戴帽式がまだ済んでいないため、実習着はなく、白い診察着を着て、頭に白い三角巾をターバン様にまいた姿で実習です。髪の毛が少しでも出てはいけません。想像できますか?
“たこぼうず”と私たちは言っていました。 

戴帽式後は実習が徐々に増えていき、症例が終わるごとに症例報告をまとめる繰り返し。精神科実習、事業所実習、夜勤実習、母性実習も加わり、お産の立会もさせてもらいました。会陰切開を初めて知り、その場で絶対子供は産まないと誓った私は、3回の出産を経験しました。

晴れて、看護師免許を取得した私が配属されたのは、元結核病棟で、院内で最も古い木造2階建ての病棟でした。終末期の患者あり、検査入院の患者あり。あの当時、腎生検は病室でしていました。深夜勤務での採血は山ほど、ICG,PSP、GTTなど同じ日にあれば、タイマーをかけて走り回っていました。患者が急変すると研修医をまず呼びます。挿管やら血管確保やら、未熟者同志で一生縣命処置をしていましたが、いろんなエピソードがありました。忙しかったですが充実した毎日でした。

プライベートも充実していました。
英会話・ジム・ジャズダンス・お花を習い、フィリピンへの研修旅行に参加。夜勤明けでチーズバーガーを食べながら映画を観る。行きつけのスナックでマスターが機嫌のいい時にしか聞かせてくれない、ギターの弾き語り「ダスティホフマンになれなかった」に聞きほれる。飲み会の帰りに屋台でラーメンを食べ、サンデーサンでアイスクリームを食べながらもりあがって帰る。次の日はもちろん仕事です。パワフルでしたね~。とにかく楽しかった!

そんなこんなの毎日でしたが、仕事が辛いと思ったことは一度もありませんでした。
今思うと、職種間での人間関係が良く、チーム医療ができていたからかなと思います。

呉での6年間が私を成長させてくれました。

呉共済で看護を学べたことが私の誇りです。
看護師長 門田