2019年2月10日日曜日

第226回 2011年3月11日

前日より臨床研修病院のサーベイで仙台入りしていました。
当日天気はよく、東北とはいえ穏やかな朝でした。
午前中は特に問題なく過ぎ、サーベイヤーの先生方と昼食を済ませた後、病棟でカルテレビューをしていた時に、突然、上下に強く揺れたかと思ったら、今までに経験したことのない激しい左右の揺れで、詰所の棚が倒れ、書類が散乱し、点滴類が床に落ちあちらこちらで割れる音がしました。
私はコンピュータを抑え机から落ちないようにし、根拠もなく、こんなところでは死ぬことはないと考えていました。
時間にして1~2分でしょうか、揺れが収まったところで病院職員の方々は、患者さんの安否・機器の動作・安全確認に奔走する状況となり、サーベイどころではなく中止となり、私たちはひとまず病院を出ることになりました。
途中病院の壁のところどころに亀裂が入っていましたが、建物自体は問題ないようでした。
また病院の外に出れば、町のいたるところでブロック塀が崩れていたり、看板が落ちていたりしていましたが、行きかう人たちはそれほど慌てたり、特にけがをされている様子もなく、救急車のサイレンを聴くこともありませんでした。
ラジオ放送で仙台空港・仙台駅ともに閉鎖されたことを知り、帰る方法がなくなり、ひとまずサーベイでご一緒した先生の宿泊先ホテルが解放されたので、そこで一夜を過ごすこととなりました。
電気・水道は止まっており、携帯電源もわずかとなり、また電波状態が悪く家族への連絡も難しい状況でした。
ほとんどの店は閉まっており、ようやく開いているコンビニを見つけて、余震が続き、小雪が降る夜中を長い列に並んで、食料と電池・充電器をどうにか手に入れ、家族へ安否も伝えることができました。
その夜はホテルのロビーのわずかなスペースでホテルからお借りした毛布で明かしましたが、翌日にはホテルも倒壊の危険性ありとのことで使用不能となりました。
医療職として、何かお手伝いすることがあるかと思い、サーベイ先の病院に連絡を入れましたが、むしろ、ご迷惑をおかけする形になるようでした。
どうにか空車のタクシーを見つけ、ご一緒した先生が東京からご家族が迎えに来てくれるとのことで東京方面に向かいました。
仙台から少し走ったら、そこにはいつもと変わらない穏やかな風景(ラーメン屋さんが普通に開店していた。)が見られたのが、奇妙な感覚でした。
また途中恐怖と危機感からかコンビニで食べきれないほどの食料を買い込んだのは、あとから思えば、無駄なこととも思えますが、その時は必死でした。
その後家族からの情報で、福島空港が無事で飛行機が飛んでいるとのことで、空港に向かい札幌経由の大阪便に乗り、どうにか帰ることができました。

その時に感じ、考えたことは、とりあえず被災地から一旦住民は離れて、ある程度復興してめどが立つまでは、被災地に戻らないこと。
被災地では交通網が寸断されており、そこに多量の人や物資が流れ込むのはかえって、混乱・混雑を招き非効率的だということ。
情報手段としての携帯電話は重要で、必ず予備電源を持っておくことでした。
昨年もいろいろな災害があり、温暖化のせいか、世界中に異常気象を認めます。明日は我が身として、日頃より心構えをしておいたほうがいいと思います。
外科 蓮岡