2017年6月10日土曜日

第179回 「山陽本線の高架と辻の坂」

ひょんなことで福山の山陽本線に近いところに引っ越して、最初に驚いたのは、けっこう真夜中も貨物列車はガタンゴトン走っているのだなぁ、ということでした。

山陽本線は高架になっていて、長い貨物列車は、長く通過する音が聞こえてきます。この高架は、3階を新幹線、2階を在来線(福山駅の西側は山陽本線と福塩線)が走る構造で二重高架というらしいです。

今回、山陽本線の高架の東側の始まりはどこだろうか、と考えながら、晴れた日の早朝に、福山駅から、てくてく東に向かって、散歩してみました。
少し歩いた高架の北側にこんもりした緑があり、福山城初代水野日向守勝成公の立派なお墓です。略年譜によれば、徳川家康の従兄弟(いとこ)にあたる方とあり、びっくり。福山の郷土史(大和建設株式会社HP)によれば、その当時は、海に向けて岬のように突き出した半島だったらしいですが、その半島の上に福山城を築き、現在の市街地を干拓して創り出した、すごい方です。

また、『天を裂く』大塚卓嗣著、を読んでみますと、日向守(ひゅうがのかみ)という官位は、かつて明智光秀が名乗っていたため、余人は嫌がったらしいですが、それを受けた勝成公は豪快な方だったのだなぁと、感服しました。

さらに東へてくてく歩いていくと、上り坂に着きます。辻の坂、というところ。ここが山陽本線の高架の東側の始まりのようです。


ここから北東方向に、切り通しになっている坂道がありますが、実はこちらが、辻の坂。
かつて笠岡への街道で、もっともっと急な坂で通るのが大変だったらしいです。道端には、辻の坂の切り通しを掘り下げた工事の石碑があり、当時のご苦労がしのばれます。

振り返ると、切り通しの高架側の頂上に何やら緑が見えます。登ってみますと、立派な灯籠(とうろう)があり、そこから福山市街地がきれいに見渡せました。金毘羅宮(こんぴらぐう)の常夜燈というものだそうです。このあたりの高台を深津高地というそうで、水野日向守勝成公が福山の海の干拓を始める前は、この深津高地の周りは海だった、らしいです。とってもスケールが大きいことで、またびっくりです。


さらに辻の坂を過ぎてしばらく歩くと、小さな道しるべがあります。左ふく山、右かさ岡と書いてあるようです。


かつては、この道しるべを見ながら、笠岡へ歩いていたのだなぁ、今は、真夜中に貨物列車の音が聞こえてきても、便利でありがたい時代だなぁ、先人のおかげと感謝しなければなぁ、と思いました。(おわり)


第二内科部長 松本