2014年5月10日土曜日

第75回 「つながるラジオ ~未来への絆~」

「広島をきらきらさせる周波数」。

そんな謳い文句の映画 「ラジオの恋」 がこの2月に尾道の劇場を中心に公開となった。
ロケ地も役者もすべて広島。やる気を失ったラジオパーソナリティーが、少女との出会いをきっかけに自分の心の奥にしまった大切なものをさがしにいく、心温まるファンタジーだ。情報が氾濫する現代においても、発信の一方向性にとどまらず、リスナーとの絆を大切にするラジオは、若い世代に根強い人気を保っている。

私が生まれたのは神戸の小さな社宅、どこにでもある一般的な家庭だった。
サラリーマンの父と、働き者の母の間の一人っ子として、ごく普通に育てられた。
ただひとつ、テレビが家になかったことを除いては。

両親はテレビのある家庭環境で育った、それにも関わらず新居に準備しなかったのは、「テレビは家事や仕事の妨げになるから」であった。

いつも「教育方針では」という高尚なご指摘を受けるが、違う。
単に、両親ともにテレビが嫌いであっただけである。
生まれた時からテレビ放送に感化されずに生活していた私は、家の中でかかっているラジオ番組を聞きながら過ごしていた。
主にNHK第一放送、ときどきはNHK FM。
ラジオは私にとって魔法の小箱だった。
「おはなしでてこい」で表情豊かなお話のおじさん、おばさんの語りに釘づけになるかと思えば、「上方演芸会」と「真打共演」に笑い転げ、「日曜名作座」の深すぎる大人のドラマに首をかしげ、70年代ポップスは大人顔負けに歌いこなした。もっとも歌詞の内容なんてさっぱりだったけど。

なかでも面白かったのは実況中継だ。
野球も相撲も箱根駅伝も、オリンピックだってラジオで応援した。アナウンサーのたくみな解説におおきな球場や国技館の様子が手に取るように分かった。ただ、問題はすべてが想像であったということ。大学時代まで野球の守備、ショートは二人いると信じて疑わなかった。だってほんとにすばしこいんだもの。

そして、その後の私に大きな影響を与えたのは、やはりクラシック番組だった。
幼少のころはラジオから流れるバックミュージックにすぎなかったが、レコードのかけかたを習得してからは、家にあるクラッシク名曲大全を片端から聴いていった。当時は、絵本感覚で、分からない漢字を飛ばしながら曲目解説を読んでいたが、学童期にピアノを師事するようになってからは、「音が見える」感覚が養われていった。

両親は彼らなりに私が芸術や自然に直に触れられるよう努力してくれた。
普段、ラジオと音楽と想像の世界に閉じこもっていた私にとっては、巨匠の息遣いを感じる芸術作品や、古来の神様がすむ自然は貴重な存在だった。それは、クラシックコンサートや、美術館、そして週末ごとに出かける近郊の山々だったりした。私は山へ出かけるのが大好きだった。誰にも気づかれずにひっそりと咲く花々、虹色のとかげ、まだまだ練習中の鶯たち。山の大人たちはとてもやさしく、小さな私が歩いていると褒めてくれたり、おやつをくれたりするので、ますます得意になってずんずん歩いていったものだった。物心ついてからは、より広い世界を体験するために、ボランティア活動へ送り出された。それは高齢者施設だったり、知的障害者のサークルだったり、精神障害者の復帰を受け入れる食茶房だったりした。そこでのたくさんの出会いが、その後の人生に大きな影響を与えることとなった。

その一方で、普段テレビで慣れていない分、映像に対する感受性は極端に強かった。
端的に言えば、映像が怖いのだ。小学生時分、「日本昔ばなし」のアニメが怖くて、旅行先の部屋から逃げ出した。同じころ、初めてのディズニーランドでは、シンデレラ城ミステリーツアーが怖くて(映像が本物と思い込み)、動けなくなった。映画館ではいまでも緊張と恐怖で震えが止まらない。たとえそれがコミカルな内容であっても。刺激が強すぎるのだ。その映像の記憶は鮮明で、自分も映写機になれるのではないかと思うほど、その内容を思い出すことができる。
もちろん寝られなくなることもしばしばだ。
また、普段はラジオから聴力と第六感を活用して、様々な状況を想像する、「音を見る」生活をしているのだが、テレビ制作番組は音声と映像を一緒に提供してしまう。つまり、私の頭の中ではテレビの音から作り出された自分の想像と、映像による実際の状況との間での修正が常に必要となる。テレビを「ぼーっ」と眺めていることができないので、短時間でも非常に疲れてしまうのである。

小学校に上がってから中学時代までは、同級生の間で「常識」とされる、テレビの話題についていけず、しばしばいじめの対象になった。CMを元に「くずおかんちょー胃腸薬」という不名誉なあだ名もつけられた。もっとも当人は、ピアノを始め音楽の勉強に忙しく、友達と遊ぶこともなかったから、1年間の学級崩壊も経験したが、精神的な影響はほとんどなかった。いじめられないよう、家にテレビを買うなど、言語道断。私にとってテレビは恐怖のパンドラの箱であった。

私とテレビの関係が大きな転換期を迎えたのは小学6年生のときだった。
ときはNASA再興期。チャレンジャー事故以来、初めての打ち上げとなったエンデバー号で毛利衛さんが宇宙飛行士として飛び立った。その宇宙滞在中に行われたNHK「毛利さんの宇宙授業」。そして、帰還後となる「毛利さんの宇宙報告」。これに私は生徒の一人として参加したのである。いつもラジオで聞いていたスペースシャトル打ち上げの様子が大画面に映し出される。そして初めて見るシャトル内の様子。カメラの視線も忘れて釘づけになった。その一方で、秒単位のスケジュールの中、宇宙との限られた交信時間を守ろうと、スタジオは異様な緊張感につつまれていた。一見華やかに見える画面の裏側にはたくさんのスタッフさんの協力があることを知った。このとき、見る側ではなく、発信する側の作業を垣間見ることができたことは貴重な体験となった。

いまでも私の生活の中心はラジオだ。1日の始まりは「バロックの森」、終わりは「ラジオ深夜便」だ。
往年の懐かしいアナウンサーの声を聴ける深夜便は、不眠時の安定剤だ。テレビなんて、なくていい、とは今は思っていない。このおかげで大好きな真央選手の応援もできるし、映像自体が芸術作品であると思う。ただ、「テレビが嫌いだ、必要ないから買わない」という強い意志をもっていてくれた両親に。代わりに精神的にもっと広い世界をみせようとしてくれた両親に、いまは感謝したいと思う。小さな私にとって、情報の氾濫がなかったからこそ、本当の姿を見るための、心の目を育てることができた。小さな表情のうごき、声の抑揚、しぐさ、それらから患者さんの感情を受け取る。苦痛をよみとる。それはいまの私に大きな力となっている。これは診療や、大切なひととのコミュニケーションには欠かせないが、しばしば必要以上の情報までわかってしまい、自分自身が傷つく危険もある、諸刃の剣だ。これからも大切に上手に使い、次の世代に伝えていきたいと思っている。

「ラジオの恋」、ひととひととのつながりが築くこの優しい奇跡がこれからも続いていくことを願っている。

脳神経外科 葛岡