2012年11月30日金曜日

第24回 「絶対勝つぞカープ!カープパフォーマンス席の応援」

今年のプロ野球も巨人の優勝で幕を閉じてしまいました。

あんなにカープを応援したというに9月の大失速で4位、CS(クライマックスシリーズ)には一歩届かなかった。

昨年から息子がカープ、カープと言うようになって、球場へ足を運ぶようになり行けば負ける、また行けば負ける・・・。そんな日々が続いていました。病院に就職してからも勝った事がなく全敗でありました。

2011年我が家の最終戦、外野レフト席で観戦していました。まさかまさかの1-0で勝利。“よかった、よかった、勝った試合を見せることができた”と思っていたら息子が一言、「なんで、あそこじゃないの?」あそことは・・・パフォーマンス席だったのです。

今年から観戦するときはパフォーマンス席になり、トランペットに合わせて応援バットを叩き、手を伸ばし、立ったり座ったり(スクワット応援)大忙し。

野球をゆっくり見ていられない。嫌だ、席を離れたい、でも子供たちは楽しそう!ここで見るしかない・・・。

カープが得点すると

「♪宮島さんの神主が~おみくじ引いて申すには~今日もカープは勝―ち勝―ち勝ち勝ち!万歳、万歳、万歳!」

なんだ?なんなんだ!! これは楽しい(笑)

隣の客とも応援バットで祝福する。段々、止められなくなってくる。早く得点しないかと思う。ニックが2ランホームランを打ち、また宮島さんを歌う。とっても楽しい!

もう、止められない!カープを応援するというよりも、この応援が好きなのかもしれない。

来シーズンが待ち遠しい とっても!

参考資料 YouTube(2012/8/5 広島カープ対阪神スタメン発表)(宮島さん)

応援団の皆さん みなさんのおかげです!

試合前の団長のご挨拶






























放射線室 副室長 丸田

2012年11月20日火曜日

第23回 「島根の自然のなかで」

私は、島根の自然のなかで育ちました。今は○○町と名前が変わってしまったのですが、小さい時は○○○村と言い、中国山脈の冬は雪深いところです。

「住めば都」という言葉通り、私は○○○村が大好きで、「いい所に生まれたな~」と本気で幸せを感じて大きくなりました。


夏は蚊が多く、母が夜は蚊屋をしてくれました。
蚊屋の中に入ると何か嬉しくなったものです。なんだか、狭く、暗く、秘密基地のような・・・。
毎晩家族とキャンプをしているようなウキウキした気分でした。
私の寝像も相当でしたので(現在もですが・・)朝は身体半分は蚊屋の外でした。(笑)

冬の積雪は小さかった私の背丈まで積り、朝起きると一面真っ白。
父が私の前を学校まで歩いて道をつくってくれました。
小学校1年から3年までは冬場は地域の分校に通います。生徒は多くても6~7人。
同級生は3人でした。みんなでこたつで勉強していたことを思い出します。
(みかん食べながら勉強してたなぁ~)

私が、小学校5年生になったころ、その分校も廃校になり、冬場でも低学年も本校に通うようになりました。本校までは子供の足で片道1時間の道のり。低学年の足には雪の中はきつく、私達高学年がおんぶして学校まで行きました。寒くて、寒くて・・・。(泣)でも本校に着いた時、ストーブで温められた牛乳が美味しかった。ストーブの前に立つと全身から湯気が出ました。友達とお互いを見ては笑いながら、また、雪で遊びました。

中学校になって、やっと!自転車通学が許可です。でも、半分は歩きで、山あり谷あり。幼友達と行きかえり、ピンク・レディーを歌いながら、通っていました。
知っておられます?ピンク・レディー(「誰?何?」って聞こえる・・・。)
私がケイの方だったかな??低い声なんで。
だから、自転車を押しながらの通学も楽しかったです。












島根の人は温厚です。みんな、ゆっくり時が過ぎています・・・・。

「できんかったのぉ~。また、明日するかのぉ。」

それを強く感じたのが、私、看護学校が大阪で、18歳で大阪に出たときです。
やぁ~~~びっくり!?でした。

「なんや??この世界。なぜ?急ぐの??」

「なんかあったの?ねえ~~。ねぇ~~。」

って感じで・・・・。
みんなが走っている。急いでいる。

「どけどけどけ~~~!!」って。

朝から晩まで走って、電車に乗って・・・。
待って! あっ~~電車に乗り遅れた!!
でも、また、すぐ次の電車が来る!?あれっ?大阪って、もしかして、便利やん 。(^v^)/
いつの間にか、私もイラッチになってしまいました。

「ちゃっちゃっとしょーや。」

この歳になって(まだ、まだ、気は若いのですが☆)、やっとすこし、のんびりしてきました。
島根に帰るとき、福山から母に電話しておきます。
「ご飯作ってまっとるけ~な。」

と母。
帰ると、なにもしていない。

「車で3時間もかけて帰ったのに。ご飯は?布団も干してないの?も~~!!」

昔は腹が立っていたけど、今は・・・・。

「まっ!いいっか。ぼちぼち一緒にするかぁ~。」(笑)

「ごめん、ごめん、しょ~おもよったんよ。」

と言う母に笑って待てる今日この頃です。

看護師長 永久

2012年11月10日土曜日

第22回 「笠岡ラーメンの思い出」

県道笠岡井原線に面した以前の実家の斜め向かい、保育園の隣におじいさんとおばあさんでやっているラーメン屋がありました。

小学校低学年の頃の記憶です。

そのラーメン屋は畳3つを横につなげたくらいの細長い小さな店で、色のあせかかったのれんをくぐると、左手には1畳くらいの調理場で、ずん胴が2つ湯気を立てていて、奥の壁には2階の物置に登るための垂直なはしごがあり、右手にはやっとラーメンが置けるくらいの奥行しかないカウンターと木製の丸イスが6つくらいの狭い店でした。
昼間は閉まっていて、夕方にのれんが掛けられ、夜遅くまで開いていました。客筋はおっちゃん達が多く、狭い店内が一杯の時には、店の外に木製の縁台を置き、ラーメンをすすっていました。
父が留守の時には、そのラーメンの出前を取ることがあり、スープがこぼれないようにラップされて、平べったい輪ゴムで丸くとめられたどんぶりが3つ、木製の岡持ちで届けられました。
小学校低学年の僕は早く食べたいと焦ってしまい、平べったい輪ゴムがうまくはずせなくて、ラップと輪ゴムが一気にはずれて熱いラーメンのスープを飛び散らせてしまうのでした。
琥珀色の鶏ガラのスープと、麺に載せられたチャーシューに子供用に少しだけ振られたコショーの香り、立ち上る湯気。ラーメン屋は駄菓子屋と違って子供には敷居が高く、でも、ファミリーレストランやコンビニがなかったあの頃には、ラーメンの出前はちょっとぜいたくな喜びでした。

同級生には、そのラーメン屋のおじいさんの孫の梅さん、小学校から近い長屋に住んでいた京子ちゃんがいて、僕はひろしで、ちょうどその頃、「ど根性ガエル」というアニメがテレビで放送されていました。
何度も夢に見たのですが、たった1度だけ、梅さんが、店が開く前の午後4時くらいに偶然おじいさんが出かけた時、こっそり僕にラーメンのスープをつくってくれたことがありました。いわゆる笠岡ラーメンはラーメンにかしわが載るのですが、そのラーメン屋はシャーチューが載り、その煮汁をまず、ペットボトルのキャップくらいの量をどんぶりにいれて、その上に鶏ガラのスープを注いで出来上がりました。梅さんの得意そうな表情、きれいな油の浮いた透明な琥珀色のスープ、鶏ガラの匂い、立ち上る湯気。おじいさんに見られたら怒られやしないかと、ドキドキしながらスープを飲みました。おいしかった。

 その後、そのラーメン店はおじいさんも亡くなり閉店しました。市の区画整理で街の姿も変わり、京子ちゃんは転校し住んでいた長屋もなくなり、僕の実家の場所も変わりましたが、数年前、そのラーメン店は新しい場所に開店しました。店主は梅さんでした。なんとなく気恥ずかしさもあり、行こうか行くまいか迷ったのですが、1度だけ梅さんの作るラーメンをひとりで食べに行きました。そこにはおっちゃんになった梅さんがいました。お店は奥さん、娘さんらしき人と切り盛りされていました。覚えてくれてないかもしれないし、名乗りはしませんでした。でも、梅さんのラーメンは、40年近くの時間を超えて、僕を懐かしく温めてくれました。

追記。

そのラーメン屋はチャーシューが載っていますが、いわゆる笠岡ラーメンは、かしわが載っています。かしわは初めて食べると固く感じるかもしれませんが、噛みしめていくと味わい深く、美味です。

ちなみに11月30日まで、笠岡ぐるっと博2012ぐるめ・めぐりスタンプラリーが開催中です。11月18日には、大道芸人さんの出演もある、いちょう祭りかさおか2012が開かれるそうです。また、笠岡湾干拓地にできた道の駅「笠岡ベイファーム」でも笠岡ラーメンが供されています。秋の手近な行楽にいかがでしょうか。(笑)


いわゆる笠岡ラーメン(かしわ載せ)


















内科医長 松本